




アプタンさんは1880年(明治13年)に米国メイン州で生まれました。お父さんは物理学を学び、エジソンの電球発明に協力しました。最初の電球のフィラメントに日本の竹が用いられたことを聞き幼い時から日本へのあこがれを持っていました。
1908年(明治41年)キリスト教の宣教師として来日し、川越や浦和、大宮を始め多くの幼稚園を開設しました。そして1926年(大正15年)松山聖ルカ幼稚園を開設し、初代園長となりました。その当時は園児が12,3名だったということです。アプタンさんはいつも神様の愛を語りました。「神様がこんなに私たちを愛しますなら、私たちも友達に神様の愛をみせるはずです」とたどたどしい日本語で話しました。晩年は毛呂山町に住み、病院や信徒の家庭を訪問する時には、いつもドロップのカンを持っていき、一人ひとりに「愛のしるし」と言いながら一つづつアメを手渡しました。道行く人々にまで「愛のしるし」を手渡しました。それは86年の長い生涯をかけて、神を愛し、人を愛し、愛をもって人に仕えたアプタンさんの生涯を語っています。1966年(昭和41年)7月2日、アプタンさんは愛仕の生涯を静かに閉じました。
アプタンさんの言葉
「神と共に愛」
「何でも神にお任せしましょう」
「いいえ、あなたに出来ます。できるようにしなければなりません。」
小林司祭様 「こひつじ」No227より

ルカさんからのお手紙
私の名はルカです。
どうしてか、私の名前をつけた教会、幼稚園、病院が世界中に多くあります。
埼玉県の東松山市にも聖ルカ教会と聖ルカ幼稚園があります。どうして私の
名前をつけているのか分かりませんが、ことによると私が医者であったこと
と関係しているのかもしれません。
私は中東のシリヤの出身で聖書の中に多くの手紙を残しているパウロという
人と一緒によく地中海沿岸の国々を旅行しました。その旅行は新訳聖書の中
に「使徒言行録」という難しい名前でのっているのでお読みください。今か
ら約1900年前の旅行記です。パウロさんは私のことを「愛する医者ルカ」と
呼んでいます。私はパウロさんのエルサレム(イエス様が死んで復活した所
への最後の旅、ローマへの航海と投獄の時も仕えました。そういえば私の書
いたイエス様の伝記「ルカによる福音書」は多くの人たち、ことに病院や幼
稚園にいる人たちから読まれているようです。私はそのイエス伝の中で弱い
人たち、子どもや女性の人たちに対する イエス様の行いや言葉をたくさん
残しています。
「あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける
であろう。これがあなたがたへのしるしである」
「親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町である
ガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵み
に包まれていた」「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」
「イエスは女に『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と
言われた」
そういえばクリスマスカロルの中に私のイエス伝の中の言葉を用いた歌が多
くありますが、皆さんのよく知っている次の歌もその一つです。
きよしこのよる ほしはひかり
すくいのみ子は まぶねのなかに
ねむりたもう いとやすく
松山聖ルカ幼稚園は神様の幼稚園ですね
小林司祭様 「こひつじ」No231より
私が初めて聖ルカ教会に来たのは昭和26年高校2年生の時です。その時の牧師は松村泰明先生で、聖ルカ幼稚園長もしておられました。今回は松村先生が書かれた。「閑日随想」という本の中から、松村先生の幼稚園長としての働きについて記します。
戦争中の幼稚園
昭和15年11月20日、園長のミス・ボイドが大事なことがあると言って、牧師館に私を訪ねてきた。部屋に入ると一冊の帳簿を前にして、少し緊張した面持ちで私にこう言われた。「きっと戦争が始まります。私は大使館の命令で急に米国に帰ることになりました。この後の幼稚園のことをあなたに頼みます。ミッション(宣教師本部)からも幼稚園の事はすべてあなたに引き継いでいくように言われました。大変だと思いますが、よろしく頼みます。ここに幼稚園の会計簿と残金が少しあります。ミッションの補助金は来年の3月までは来るはずです。」これだけ言うと、ミス・ボイドは帳簿と残金(306円45銭)を私の方へ押しやるようにして,私の諾否の言葉も言わせず、涙を押さえるようにしながら立って出て行かれた。これが私に対する園長任命の伝達であり、事務引継ぎのすべてだった。
私は予期しなかった責任を否応なしに背負わされて、12月から聖ルカ幼稚園園長として、34名の園児と2人の先生達を引き継いで前途多難な園の経営に当たることになったわけである。それでも私は過去8年間チャプレン(指導牧師)として園の指導に当たっていたので、園児たちや職員、父母方とも親しく知り合っていたので、経営についてもさしたる困難は感じないで、翌年の3月には25名の卒園生を無事に送り出し、4月には27名の新入園児を迎えて、新学年度へと滑りだすことが出来た。
予め覚悟していた経営難がじりじりと迫ってきたのは、その年の暮れに近い第2次大戦勃発の頃からであった。経営費の半分以上を支えていたミッションからの補助金は、前年度限りでなくなった。思い切って17年度から1円50銭の保育料を2円に値上げしたが、それを補うことは出来ず、手持ちの経営費は月々減るばかりであった。4月から2階の保育室の空いていた1室を中学校の女教師に貸し、更に7月からは東京から来た疎開の家族に教会の控室を貸し、更には井戸端の物置まで住居として貸して、少しずつ賃料を上げて経営費の足しにした。
小林司祭様 「こひつじ」229号より
聖ルカ


青空をバックに
うす紫に影を作って咲き誇っていた桜に
若葉が萌出る頃
この春生まれ出た銅貨大の小亀が
次々と這い出てくる
池の端モッコクの木には
光る芽があり
グローブジャングルは回転しつつ
子どもたちを乗せて
高坂を通過し池袋、月へ
赤鬼と緑鬼は西の山のほうからやって来て
火の神はお泊り保育の園庭に火を降ろし
12月、サンタもイエス様も身近になり
星とエメラルドに輝くのだ
これら虚々実々の世界が生活であり
いつもリズムと色彩にあふれていた
人は遊びに没頭し
面白さに心躍らせる時にのみ育つという教育の原点
時には壮年の五体と感性はそのためにすべて動員され費やされた
喜びも悲しみも幾年月、私の28年
冊子「松山聖ルカ幼稚園80年の歩み」より(平成18年2月)



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本園は東松山市で最初にできた幼稚園であり、日本聖公会保育連盟・立教大学・立教女学院短期大学・聖路加国際病院等と同系列にあります。 |

地 図

詳細図

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私は1939年(昭和14年)4月に松山聖ルカ幼稚園に入園しましたが、二日目に登園を拒否し、そのまま退園してしまいました。なぜかと言うと外人の園長先生がこわかったからです。それまで外人を見たことがなかったので、青い目をした園長先生がこわくてなりませんでした。その青い目をした園長先生が聖ルカ幼稚園第3代園長のL・H・ボイド女史で、多くの人たちは「ボイド先生」と呼んでいました。 ボイド先生は1879年(明治8年)に、米国バージニア州のボイトンという町で生まれ、1902年(明治35年)宣教師として来日し、弘前(青森県)、前橋、東京の教会で働き、1928年(昭和3年)に川越に来て、川越の初雁幼稚園長、松山聖ルカ幼稚園長となりました。
ボイド先生はとても親切な方で、自分の住んでいる家の一室をあけて、体の具合の悪い人たちを世話をしました。また園児の家をよく訪問しました。ある家の奥さんが「先生は日本人がお好きなようですね」と言うと「大好きです。好きでなければいられません」と答えました。このように日本人が好きなボイド先生でした。
またボイド先生は幼稚園が大好きでした。「幼児保育の仕事は大変なもので、保母は一刻も幼児から目を離すことは出来ません。絶えず注意を注いでいなければならないので、心身ともに非常に疲れるものです。だから保育後の園舎や庭の掃除などを保母にさせてはいけません」と言い、掃除のおばさんを雇っていました。このようにボイド先生は幼稚園の教師を、そしてなによりも園児を大切にする園長先生でした。
ある年のクリスマス礼拝の時、保護者の一人のお母さんがその子と共に洗礼を受けたことがありました。そのとき、園長のボイド先生は嬉し涙を目に浮かべながら、「この二人がこの幼稚園から神様に納げられました」と言って心から喜ばれたとのことです。幼児とその家族に神様の愛を伝えることを教会の幼稚園の使命と考えていたのです。
戦争のため1940年(昭和15年)12月に園長を退職し、米国に帰られたボイド先生は「天国へ行ったらどんなにうれしいでしょう。イエス様とともに天国にあることを思うと胸がどきどきします」と言い、1957年(昭和37年)3月5日に教会の老人ホームで逝去されました。
小林司祭様 「こひつじ」228号より